|
自画像 |
|
|
|
|
【ウィーン=小笠原正佳】 シェーンベルク(1874−1951)は無調の作曲家として、画家としては自画像で知られているが、ウィーンで過去最大規模の絵画作品展 「画家、シェーンベルク」 が6月5日まで三ヶ月間開催され国内外の注目を集めた。自画像32点、印象・ファンタジー20点、カリカチャー21点、習作・舞台演出25点、デザイン・肖像画25点、風景画14点などとシェーンベルクと親交のあったリヒャルト・ゲルステル、マックス・オッペンハイマー、オスカー・ココシュカ、エゴン・シーレによるシェーンベルク肖像画など220点以上の展示があった。
展示会場はアーノルド・シェーンベルグ・センター。同センターは1998年にウィーン市がシェーンベルク遺品を管理するために創設した財団で、センター内には、シェーンベルクのカリフォルニアの仕事場を再現した展示室もあり、図書館・資料室など通常の絵画展とは異なった趣だ。今回の展覧会では、財団が管理するシェーンベルク家所有の絵画、160点余りに借り入れ作品が加わり、シェーンベルク展としては過去最大のものとなった。
シェーンベルクは 「自分は言葉で表現するのが苦手だから、音楽で表現する。音楽で表現できないものは、絵画で表現する」 と自ら絵画への関心の動機を語っているように、作品のほとんどが、音に出来ないものを表現した習作だ。また、絵画に本格的に打ち込んでいた時期が1908−1912年と短く、精神的にも経済的にも一番困難な時期であったのが興味深い。
ワーグナーを信仰し、音楽を総合芸術として解釈していたシェーンベルクは舞台演出のスケッチから絵画へ手を染める。音楽作品と同様に絵画作品も非常に緻密に表現の意図するものを正確に仕上げてある。表現主義ともいえる作風は、ウィーンのアウトサイダーの画家、リヒャルト・ゲルステルとの出会の影響が伺える。本格的絵画作品としては1906年の署名が一番最初だという。
1908年、このゲルステルと妻マティルデの浮気の現場を目撃してしまった、シェーンベルクは遺書を書いて、自殺を考えるほどに落ち込む。ゲルステルはこのことを苦に自殺してしまう。最新の音楽の作曲家としては、理解者も少なく経済的にも苦しい立場である。しかし、まさにこの時期に絵画に打ち込んでいる。1912年以降は数点のスケッチと水彩画を残しているのみだ。絵画への情熱の陰には経済的な事情もあるようだ。出版社に絵画作品を売り込もうとした手紙が残っていたり、トランプなどは贈り物として描いたものだという。1912年、絵画作品が思うように売れないとなると、パッタリ制作をやめてしまっている。後に、「作曲と絵画制作は両立できない」 と説明している。
1910年、シェーンベルクは初めて個展をウィーンで開催することができた。シェーンベルクが絵を描くことは仲間内では知られていたが、腕前の方は知るものがほとんどいなかった。47点の油彩画が、シェーンベルクが本格的な画家であることを証明した。また、数点は買い手までついたという。しかし、画家としては生計を立てるまでにはならなかった。
1911年、ミュンヘンでシェーンベルク作品のコンサートを聴いたカンディンスキーは早速、シェーンベルクとコンタクトを取った。コンサートには自画像が飾られていたという。カンディンスキーにより 「青騎士」 グループを打ち上げた展覧会にシェーンベルクも出典の依頼があり自画像、ビジョンなど4点を送った。カンディンスキーが 「ロマンチックでミステリアスだ」 と褒め挙げたのに対し、フランツ・マルクなどはシェーンベルクの作品について懐疑的な意見を持っていたという。
シェーンベルクの絵画作品に対する評価は、カンディンスキーのように 「幻想的で閃きがすばらしい」 というものと、ココシュカのように 「作品の意図を正確にリアルに表現している」 という意見に分かれる。どちらの見方も正解で、両方の見方ができるであろう。シェーンベルク自身は後年になって、自分は画家としてはまったくの素人だと述べているが、それにしては作品が計算し尽くされている。習作も含めて、どの作品も観賞するものに確実に訴えるものがある。評価さえも拒否するような、完ぺきさがある作品もある。そこが、シェーンベルクの音楽と絵画の共通性だろう。
(2005年6月21日)